「推し」と「推し活」について、考えてみる・・・(ボロクソ批判注意)

  ガッポイガッポイガッポイガッポイ

 

 最近推し活!とか推しを作ろう!とかよく聞きますよね。

 私はそれが気色悪くてたまらないのですが(個人の感想です)、最近なんでこういう推し活ブームに寒気を感じるのか考えてたんですよね。で、ようやく言語化出来そうなんで、今回は推し活のどこに嫌悪を感じるのかについて好き放題語って考えてみます。現在進行形で推し活している人を名指しで批判している訳じゃありませんので悪しからず。

 

www.youtube.com

【“推し活”事情】「散財上等」…バイトは「週8」『バンキシャ!』 

日テレNEWS公式チャンネルより動画引用

 

 「推し」とは、特定の人物、キャラクター、団体、商品などに対して熱烈な支持・愛着を持ち、人に推薦していきたいモノを指す言葉。「推し活」はそれらに対して消費や布教を行う行為全般を指す言葉です。これは自身の信仰する「」に貢ぎ物をするということです。

 

 推しという言葉が最初に使われ始めたのは2000年代後半らしく、AKB48をはじめとするグループアイドルの中で、どのメンバーが「一推し」かという意味で用いられていた言葉だそうです。ちなみにAKBも死ぬほど嫌いです。握手券とか姑息な手段でオリコン1位になっといて国民的アイドルとか笑わせんなよって感じです。私はAKBとか以前に、アイドルとか俳優とかが苦手なんで、薦められてもハマらないんですよね・・・。

 

www.akb48.co.jp

AKB48公式サイトより URL引用

 

 そして今現在の推しと言えば、アイドルグループの誰を応援するかではなく、アニメキャラVTuber配信者インフルエンサーなどを応援するものに変わっています。大金をはたいて握手券が当たるか当たらないかみたいな極悪ビジネスからは離れて、リターン還ってきそうで、且つ身近さを感じるものに金を貢ぐようになったんですね。

 

 推し活をする人々の中で「推し」とは文字通り「」です。Godです。自分達一般市民とはかけ離れた煌びやかな存在。手が届かないから美しいとか言いますが、実際は同じホモ・サピエンスだし、誰かが書いた絵だったり、創作の世界にしか存在しないものだったりします。パワー23000、スピードアタッカー、ワールド・ブレイカー、相手全破壊&強制攻撃&選択不可みたいな絶対に適わないヤツではありません。

 行けカツムゲン!(世代)

 

破壊龍神ヘヴィ・デス・メタル(2008),deneblogより画像引用

 話がガラッと変わりますが、サピエンス全史という本の中では、我々ホモ・サピエンスの優れた点がいくつか語られています。その一つに「認知革命」があります。他の人類より身体が小さく、力の弱いホモ・サピエンスは、突然変異で嘘を信じること(つまり偶像崇拝や権威崇拝)が出来るようになったことで、団結したり命を擲って戦ったりできるようになりました。つまり、神の存在によってホモ・サピエンスは他の人類を圧倒したのです。

 

サピエンス全史(上) Amazon販売ページよりURL引用

 

 以前の記事(というか1つ前の記事)で、推しとやらはイエス・キリストの代替物みたいなもんだと私は言いましたが、ホモ・サピエンスの認知革命を含めて考えれば、個人の信仰する神はキリストでもアッラー(ムハンマド)でもVTuberでも何でもいいんです。神とか偶像崇拝って本能的に避けられないんで、人生において切っては切れない因縁があります。ただ宗教は海外の社会規範としての役割もあったんで、そこは切り離して考えなければなりませんけれども。

 

combine-soldiers.hatenablog.com

 

 現在の推しとやらが雲の上の存在、いわば「神」としての扱いを受けていることをなんとなく話しましたが、私はこの推しと推し活が気持ち悪くて堪りません。ブームとは言え、他人に「推しとかいるの?」とか「これがオレの推し!」とか言われたら蕁麻疹出るレベルで嫌いです。これからは私がなぜ「推し」と「推し活」が嫌いなのかについて、懇切丁寧に語っていきます。

 

 ちなみに「推しいる?」って言われたときの対処法として「フリーチョフ・ナンセン」とか言っとくと相手が????ってなるんでオススメです。北極探検に行って1年以上流氷の上で生肉サバイバルしてたヤベぇ人です。その後の功績も尊敬できます。

 

ja.wikipedia.org

フリチョフ・ナンセン WikipediaよりURL引用

 

 推し活の気持ち悪さとして私が一つ思うのは、応援行為や貢ぎ行為が「優れたクリエイターを支援するため」とか「もっと素晴らしいコンテンツを作ってほしいから」という動機でなく、「自分の属性付けの一環」だったり「使い捨て可能なファッション」のような超利己的な考えに基づくものだからです。尊敬できる人だから応援するんじゃない。その人を応援すること自体をステータスの一部にしている。

 

 もちろん全員がそうだとは言いませんよ。振り上げた拳を下ろさないでください(懇願)。あまり過激に言うとただの侮蔑になってしまいますから、もう少し棘のない言葉にしてみます。

 

 世間一般の「推し」を見てみると、有名アニメ・マンガのキャラとか、美形アイドルとか、可愛いマスコットキャラとかばかりです。指輪物語でエルフとかはみんな大好きだけどゴラムとかゴブリンが好きって言う人あんま、というか殆どいないですよね。そういうことです。世間の「推し」は、誰もが認めるような美しいものや人が殆ど。その流れに乗って「推し」を探し求める人々は、さながら村八分を恐れて世間で認められている神を探して改宗するみたいな行為です。

 

 つまり「これを推していれば他人からのウケがいい」「推しがいれば自尊心が保たれる」という訳です。暴力や暴言、個性に向上心を抑圧されてきた現代の人々が向かう先は最先端宗教そして神たる「推し」な訳ですね。推しのことで会話するのだって、昔の教会に行って人々と交流することと何ら変わりありません。

 

 ひたすらにお金を貢いで、推しに不祥事があったら金を返せ!という輩も、推しとやらを着せ替えファッションのように扱っているからそうなる訳です。そしてメディアや企業は「推しを作ろう!」だの「推し活を始めよう!」と宣伝している。私が思う二つ目として、この世間の流行故の推しビジネスみたいなものに嫌悪感を覚えるというのがあります。これって言葉を変えると「ウチの宗派に鞍替えして、免罪符を手に入れよう!」みたいなもんですからね。あ~流行ビジネスって恐ろしい。

 

 違うだろ!推しとか依存先を作る以前に、確固たる自己を確立する方が先だろ!と私は思ってしまうんですが、やっぱ私自身大学での会話とかを盗み聞きしていると、若者の自身のなさとか自己肯定感の低さに異常なものを感じます。義務教育が悪いのか、世間の風潮が悪いのか、世代の格差が悪いのか、政治経済が悪いのか・・・正直どれも原因になっているとは思うんですけど、まず無宗教国家日本で、推しや神以前に「自分を成長させよう」とか「自身を見直してみよう」てならないもんかな・・・。

 

 ホストに貢ぐ女性とか推しが原因で破産するような人について、たまに考えることがあります。何故自身の財産を崩してまで貢ぐのか?身体を売って嫌な思いしてまで固執するのか?それはやっぱり自己評価の低さが密接に関係していると思うのです。

 

 おお神よ・・・みたいな縋り付きたい気持ちが誰にでも生まれることがある。そして、それにつけ込んで金を稼ごうとする悪気なき、されど邪悪なビジネスが存在する。ホストや企業アイドルに限ったことではなく、不安ビジネスやお涙頂戴ビジネス、情弱ビジネスはこの世にごまんとあります。それ自体も十二分に嫌ですが、それが社会的な風潮になって誰も疑問視していないところが気色悪いのです。

 

 世にも奇妙な物語の中に「ズンドコベロンチョ」って話があります。主人公以外の皆がズンドコベロンチョという流行語をつかっていますが、その意味を誰も教えてくれない。しかもズンドコベロンチョの意味は明確にはなく、ラストに主人公が「ズンドコベロンチョって何なんだ!?」と言ったら皆から驚愕・失望される。

 

 変な話に見えて、これって現代の流行を分かりやすく示しているように思うんです。流行語とかブームって深く考察したり、企業の世論誘導が・・・とか、経済効果が・・・とかって個人では考えないもんです。推しや推し活もその類いです。ただの一時の流行。しかし、欠けた自己の尊厳を取り戻したい人々や、流行をファッションやステータスとして取っ替え引っ替えする人々の間で「歪曲した推し活」が行われ始めた。人の欲望とか本能的な欲求を擬似的に満たせるブームって、必ず歪みが起こると私は思ってます。ポケカ転売(せどり)とか、アイドルへの逆恨みとか、キャンプ場のゴミ不法投棄とか・・・。

 

 今回の歪みは私自身のなかで飲み込みきれないほどキツいものだったので、推しや推し活に対して嫌悪感や拒絶反応が出るまでに至ったということです。まぁそれよりも、私自身が世間一般の流行に飲まれたくないとか、皆が口をそろえて褒め称えるモノに一石を投じるとか、抵抗の意思を見せたいんですよ。要は、常に逆張りかましてたいんですよね(笑)。それがカッコイイ!とかじゃないです、うん。

 

 人間は皆、心から好きと言えるものや、これをしてないと落ち着かない・これがあるから私は私たり得るというモノを持っていたい生き物だと思ってます。しかしそれが流行や周りに合わせたモノだと、後々とても困った事になるのではないかな、と疑問です。そういった時代の流行や依存ビジネスに真っ向から対抗(アゲインスト)するものが哲学人類学だと思うんで、私が普段こういうことばっか考えてるのはそういうことなのかな、と思ったりします。

 

 現に「推し活疲れ」なる言葉も出てきています。これは良い兆候ですよ!それに乗じて自身の依存しているモノや人について整理してみるのもアリじゃないかな~なんて。因みに私は本とゲームに重依存しています。最近はゲームに動体視力追いつかなくて本ばっかり。他人と話さないんでどんどん人の形をした何かに変貌してきています。

 

 人間の身体は自動機械だとかデカルトが行ってましたけど、私の場合はただの置物PC(Windows98)みたいな時代遅れなポンコツ機械になりつつありますね。

 

 それでは、さようなら。

 ガァーーーーーーーーツッッPiーーーーーーー(絶命)