「チー牛」「弱者男性・弱者女性」なるものについて、考えてみる・・・
ガッポイガッポイガッポイガッポイ
今から70~80年程前に、アドルフ・ヒトラーなるとんでもない事をしでかした男がいました。今回はそいつがしでかした数々の悪行は置いておいて、そいつが残した未来予言をほんのちょっと取り上げていきます。
人間は将来2つに分裂し、一方は「神人(ゴッドメンシュ)・超人(ユーベルメンシュ)」、もう一方はロボットのような機械的な人間になる。そして、神人・超人はロボット人間達を未来永劫操る事になる、と。
このロボット人間とはつまり我々の事ですね。何の変哲も無い一般市民です。
もう一方は神・超と名の付く人間。世界的大スターやSNSでの有名人にYouTuber(ねっとりネイティブ発音)、「上級国民(これ私大嫌いですけれども)」とやらが浮かぶ浮かぶ・・・。
現在日本ではネットスラングや侮蔑用語として「チー牛」や「弱者男性・女性」など(片親パンとかも中々に酷い)の強烈な言葉が次々と飛び出してきています。チー牛は立場わきまえろよ!とか、弱者男性は救いようがねぇから安楽死認めろや、とかです。汚い言葉ですみません。
外見が優れていなかったり、内面が厚くなかったりすると、世間または個人の常識や物差しで批判され、人間失格という烙印を押される。つまり、「強者」とされる人は「弱者(自身のさじ加減で決める)は俺らに迷惑かけることなく視界から消えてくれよ」と言っているわけです。こういう浅はかな差別思想・優性思想はこの世から無くなったことがありませんが、現代は物差しが外見やコミュ力などの社会的一般常識となり、猛威を振るっています。
陰キャ陽キャとかいうものは、運や経験・思い込みが大半です。たまたま大富豪の家に生まれたり、たまたま有名校に進学できたり、たまたま人と楽しく・誠実な付き合いができた人たち。しかし、それを生まれながらの宿命のように捉えた人たちは、やれこの世は弱肉強食とか勝ち組だ負け組だとか言っちゃってるわけですね。世知辛いな。
私はこの世はまだ弱肉強食にはなっていないと思いますね。だって弱者が殺処分されていないから。弱肉強食ってのは優性思想にも繋がってきますから、弱いものは肉塊と骨になってこその弱肉強食です。それともコンバインの「ストーカー」になりたい?
ヒトラーが言うに、人間が環境破壊や利己的な手段に溺れるあまりに、人々は「究極の状態」に置かれ、表面的な平和の裏で人々の心の中に「ナチズム的思想(全体主義・民族主義)」が蔓延るようになると言います。
現代ではどうでしょうか、美形なアイドルや俳優が持て囃されている。美容広告が綺麗になろうと囁きかける。お金持ちがメディアで引っ張りだこになり、お金=人権のような扱いになっている。有名人が身長で人権アリナシなんてくだらない事を言ったと思ったら、大勢がそれを真に受けてネットで議論が起こる・・・。
最近の「推し」とやらも私の目から見れば、イエス・キリストの代替物のようなものです。ただ信仰の対象が明確な宗教でなくなり(実際には新興宗教に酷似した団体やコンテンツ)、「救い主」がイエスでなく可愛い女の子になっただけです。推しがいると言う人達は、推しそのものが好きなのではなく、救い主に貢いで現世の雑念を払いたいだけなのでは?と私は思います。推しとかの話はいつか徹底的に文字に書き起こしたいほど溜まってるんで、ここら辺にしときます。
昔の信仰対象の女の子としてはジャンヌ・ダルクが有名ですが、現代のジャンヌ・ダルクは火炙りよりも惨い最後を遂げる時があります。SNSで叩かれまくり、未来永劫残るデジタル・タトゥーという十字架を背負って生きて行かなければならないのです。これは自ら選んだ道とはいえ生き地獄でしょう・・・。
話を戻しますが、一時の権威や財力はいつか必ず破綻するものです。能楽ダンサー世阿弥の言ってた一時の泡沫の花です。美形は年を取れば失われ、美容も時代の流行りでしかない。お金持ちに至っては、世界的な経済の流れに一度飲まれれば一気に失墜します。
偉そうにテレビやメディアで語って「私はスゴい人間!」「私を見て、私の様になりなさい!」とか言われても、所詮は一瞬で散る火花なのです。彼らは分断を作り出して、それに乗じて金儲けや名声稼ぎをする。マッチポンプ(自分で問題を起こして解決し、褒められたがる)に限りなく近い行為です。そして世間一般の基準から外れた人間は、社会的に間違った存在・曲がった存在として、差別・排斥されるのです。
「チーズ牛丼食ってそう:チー牛」「経済的な弱者男性・女性」「片親の子どもが食べてそうなパン:片親パン」が差別でなくて何なのか。全てがナチズム的な歪んだ民族主義思想・優性思想によって生まれた明確な侮蔑用語ですね、はい。チーズ牛丼の特盛りに温玉付きは非常に美味なので、取り消せよ今(現代)の言葉(差別用語)ァ!
しかし、問題なのはこの言葉がヒトラーの言う「神人・超人」から下民への蔑みでなく、中流階級または低階級の人々の間で交わされているということです。自身より下を見つけて叩きまくるという最悪のムーブです。これがヒトラーの言う「究極の状態」に近いものですね。そして、低階層とされる人々の間で見るに堪えない争いが起こっている内に、「神人・超人」とやらは地位を固めていく。
高校の頃、私も「陰キャ」として周りに馴染めていませんでしたので、このような蹴落とし合いにマウントに腹が立ってしまいますが、ここで感情に任せて怒ってはいけない。ここでチー牛とか言うな!とか薄皮あんパンは美味いだろ!とか言ってしまったら、彼ら彼女らと同じになってしまう。元も子もありません。SNSやネットスラングはシャットアウト。そっとじするのが一番です。でもやっぱり薄皮あんパンは美味いって言いたい。
最終的に何が言いたいのかというと、チー牛とか弱者とか強い言葉に見えて実は中身の薄いネットスラングは基本スルーで構わないということです。社会的強者とやらの言う「教え」や「論破」も然りです。これがないと社会人失格!とか、人生終わる!とか煽る動画や本もそうです。案外人間の一生は終わりません。強い言葉を並べているビジネス書や自己啓発本って基本中身スッカスカです。ページ開くとおしゃれそうな空白に面食らいます。宮本武蔵の「五輪の書」や新渡戸稲造の「武士道」の方がよっぽど人生の教えとして素晴らしいです。世阿弥の「風姿花伝」も良きです。
我々の根底に根付いている常識や、ふと感じる差別的な感情。その行き着く最果てがネットスラングだと私は思います。「チー牛」や「弱者男性・弱者女性」は普段の仕事・生活で溜まったストレスのはけ口として広まったものなのでしょう。しかし差別や優性思想は言葉にしてしまったら最後、その言葉の重みは死ぬまでつきまとってきますから、タチが悪いですよ。今やデータとして永遠に自分の発言が残る時代ですからね。
人間の心の奥底にある潜在的な差別意識や偏見はどうしようもないと思いますが、それを口に出して罵ったり特定の誰かにぶつけたりすると途端に面倒なことになります。第一、多様性とか平等とかも一種の差別感情から生まれるものですから。「足るを知る」という言葉があるように、他人や世間の指標など当てにせずに、のうのうとぬけぬけと生きて行けば良いんじゃないでしょうか。
嫌な言葉を使わずに生きていられる世の中を作りたいですね。手始めに、7時間で地球上の全軍隊を殲滅する所からですかね。
それでは、さようなら。
ガァーーーーーーーーツッッPiーーーーーーー(絶命)